セザンヌの絵の本質

セザンヌ 絵のこと
セザンヌの絵

~絵を描く者の視点~ SUMIアーティスト 優華

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【セザンヌの凄さ~絵を描く者からの視点】・・・SUMIアーティスト優華の「なごみのアトリエ」第2弾。子供の教科書にも出てくる近代絵画の父、ポール・セザンヌの絵についてカタログを見ながら話します♫
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話中のセザンヌの絵は、下記絵①~③の画像です。ぜひご覧ください。 

画家、ポール・セザンヌ

ポール・セザンヌ (1839-1906)

①ポール・セザンヌ  “Large Pine and Red Earth”
1890~95, Oil on canvas;72×91cm, エルミタージュ美術館
(「セザンヌ展」カタログ表紙 テートギャラリー)

画家としてのポール:セザンヌは、

印象派のクロード・モネや

ピエール・オーギュスト・ルノワールらとともに

活動をしていましたが、

1880年代からグループから離れ、

パリからプロヴァンスへ居を移し、

伝統的な絵画の約束事にとらわれていない

独自の絵画構成を追求しました。

ポスト印象派

ポスト印象派として、

キュビズム(ピカソ「アヴィ二オンの娘」等)を始め

とする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、

「近代絵画の父」と呼ばれています。

セザンヌの絵は写実か?

分析的キュビズム

分析的キュビズムとは・・・

ある立体が小さな切子状にいったん分解され、

再構成される絵画

明暗法遠近法を使わない立体表現。

セザンヌは 木やサント・ヴィクトワール山など

自然の形態をいくつもの小さな面の集まりと見て、

積み重ねることで対象を表現するというより、

構成する、というものでした。

ここでクイズです。

この絵をを見てください

②ポール・セザンヌ “Forest” 1894
Oil on canvas;116.2×81.3cm ロサンゼルス国立美術館

この曲がった木は本当にあるの?

問題です。

この絵の左に曲がった松の木が描かれています。

このような曲がった松は本当にあるのでしょうか?

無いのでしょうか??

    ⇓

    ⇓

 答え

    ⇓

    ⇓

答えは・・・

「あります!」

この曲がった木は本当にあります。

このグイっと曲がった松は 一見、

画家が意図した形に構成したように見えます。

どういうことかといいますと、

画家が絵を構成する上で

その場所でその曲がった形が必要だったために、

実際はそれほど曲がっていなかった松を このように曲げた形に

強調して描いたように見える、ということです。

ですが、実際は

プロヴァンスにはこのような松が沢山あったのです。

南仏、エクス・アン・プロヴァンス

セザンヌの見た風景

私は美大の大学院生時代、

南仏、エクス・アン・プロバンスの

セザンヌのアトリエを訪れたことがあります。

そのアトリエは

坂道の途中にあり、2月だったためか

ミモザの黄色い花が頭の上で美しく咲いていました。

そこから、セザンヌは毎日 

野へ絵を描きに行きました。

私は セザンヌが通ったトロネーなどに

サント・ヴィクトワール山を見に行ってきました。

そこで気づいたことは、

「あ!セザンヌって写実なんだ!」ということです。

このような曲がった木、少し細めの松、、、

これらは本当にありました。

大地の色も温かみのあるピンクやオレンジ、黄色系

で、緑の茂っている様子などが、

そのままセザンヌの絵でした。

セザンヌは「見えたまま」を描いたのだ直感的に

わかりました。

セザンヌの多視点

人間はものを見ようとする時、視線が動きますよね?

人間の目はいつも1点を見ている訳ではないのです。

だいたいは首も動きます。

それに伴いフィジカル的に視線も動く。

また、その時の感情や思考によっても視線は動く。

何も考えていない時でさえ 上の空でもどこかを見ていたり、

見ているのに見ていなかったり。

とにかくいろいろな視点で見ているのは確かでしょう。

遠近法である、1点透視法、2点透視法・・・

いわゆる、まっすぐな道の両端に電信柱が

等間隔に並び、近くは大きく描き、

遠くは小さく描くというやり方です。

しかしその、遠近法で描かれた絵

あまりに機械的にやりますと、

何か嘘くさく感じられるような気がしないでしょうか?

確かにそう見えるであろうことは理解するのですが、

本当に本当にそう見えるのでしょうか?

人間の目の、自然な動きである「多視点」の概念が、

絵がより自然に見える方法としては 

必要であると言えるのではないでしょうか。

セザンヌは

分析的キュビズムの定義通り、

見ているものの本質を抜き出し、再構成をしているのですが

本当に「人が見ている通りに描こうとしている」のだと思いました。

それは「多視点」を含めて、ということです。

これらは

私は画家なので、

絵を描く者としての視点で

セザンヌの絵を見たときに感じたことです。

セザンヌの絵の描き方

セザンヌの絵の描き方

セザンヌの絵の描き方を推測してみます。

例えば この絵はセザンヌの風景画として代表的な

「サント・ヴィクトワール山」を描いたものですが、

上部の松の枝付近をクローズアップして

セザンヌの絵の空間を検証してみましょう。

③ポール・セザンヌ “Mont Sainte-Victoire with Large Pine” 1887
Oil on canvas ;66.8×92.3cm,Courtauld Institute Gaiieries

絵の中では

この上部の松の左右の枝をよく見ると

左側の太い幹から出た枝と、右側の枠外に存在するで

あろう木から突き出た枝が

空と、サント・ヴィクトワール山ととの、

空気を含んだみずみずしい空間を、

過不足無い強弱で美しく表し、

その形はもちろん大地のカタチとも呼応しています。

ある1点の場所からの風景ではありますが、

視界は開け、

ほんの一瞬とも、あるいは静かな時間の流れとさえも

感じられる時間感覚、

見た要素を再構成してありながら、

「見え方」は自然です。静かで力強い感じ。

その力強さは確かな構成力が作り出してい

ます。

見ていると、どんどん惹き込まれ、あきません。

その魅力は、モーツァルトの美しい音楽のように、

細分化すると幾何学的な音符の構成が見えてくる面白

さと似ています

実際の風景は

ここに描かれている枝以外にも

何本かはわかりませんが、他の枝もあったと思うのです。

画面を再構成していくとき、

「見えたまま」を表現するために必要な枝を強く描き、

あまり必要の無い枝は弱く描く

ということをしていたのではないだろうか。

どの枝かにはとらわれず、手前の枝でも、遠くの枝でも、

必要な個所は強く描き、必要でないところは弱く描くので、

弱く描く枝は空と一緒になっていく、あるいは消えていく、、、

ということになると思います。

画面構成上、必要なところは必要な強さで残し、

必要でないところはその必要性の程度に残していく、、、

ということです。

それは

枝とか山とか大地とか固有のものとしては関係なく、

本質として同等に扱うということです。

(もちろん最終的には「見えたまま」の表現なので、

それが木である、山である、とわからなくなってしま

うような表現にはならない。)

見えたままを描くための再構成

どの絵画でも、立体もしくは空間としての3次元を

平面としての2次元に表現するので、

どうしても何かのフィルターがかかります。

その「フィルター」が画家の個性であり、ロジック

あると言えるでしょう。

画家個人の特性によって どんなフィルターで

2次元に直すのかは変わってくるということです。

セザンヌの場合、それが

「見えたままを描くための再構成」

ということなのです。

それは先にも述べましたが、分析的キュビズム

(ある立体が小さな切子状にいったん分解され、

再構成される絵画。明暗法、遠近法を使わない

立体表現。)として

カテゴライズされています。

3枚の風景画を見比べてみましょう。

3枚の風景(絵③④⑤)を見比べてみましょう。

④ポール・セザンヌ “Mont Sainte-Victoire and Chateau Noir” 1904-6
Oil on canvas ;66.2×82.1cm,ブリヂストン美術館(東京)
⑤ポール・セザンヌ “The Garden at Les Lauves” 1906
Oil on canvas ;65.4×80.9cm,フィリップスコレクション(ワシントン)
  1. 絵③ ”Mont Sainte-Victoire with Large Pine” 1887
  2. 絵④ ”Mont Sainte-Victoire and Chateau Noir” 1904-6 
  3. 絵⑤ ”The Garden at Les Lauves” 1906

制作年を見てみると・・・

この③④⑤のサント・ヴィクトワール山を中心とした

風景ですが、制作年が違います。絵③はまだ写実的ですが、

およそ7年後の絵④、さらに9年後の絵⑤と、

だんだん分解されたひとつひとつの要素が、色面として

表される度合いが大きくなっています。年を経るほど

抽象度が増していのがお分かりになると思います。

でも、自然に習うことを重要視しているセザンヌは、

何が描いてあるかわからなくなってしっまったりはしないのです。

そのせめぎあい、そのまなざしはとても理性的で、

彼の絵を見ているうちに、普遍的な法則がわかっていくような

そんな面白さ、美しさに見飽きません。

色と形のにごりのない本質性は

モーツアルトの音における本質性と

似ているような気がしています。

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